喧嘩の処理 part2
止めるタイミングというのも重要で、僕の経験上、いきなり止めてしまう人は結構多いと感じています。
そういう人はおそらく「安全第一」というしっかりとした考えが根底にあるのでしょう。
それはまさしく指導者の鑑。
子供を管理する立場として、安全を確保するのはどのスポーツでも共通です。
しかし難しいことに「子供達を育てる」ことも大人の役目であります。
何でもかんでも「喧嘩はダメ」と決めつけてしまうと、子供たちの表現の場を狭めてしまうこともあります。
いや、むしろ火に油を注ぐことになるリスクの方が高いでしょう。
喧嘩を始めたらすかさず仲裁に入る→「なんでそういうことするの。ダメでしょそんなことしちゃ。次からやっちゃダメだからね。じゃあお互い謝って」と言っても、喧嘩っ早い子は間髪入れずに喧嘩を始めます。笑
これも結構あるあるじゃないですかね。
大人の感覚だと「ダメと言われたら止める」ですが、子供達は「ダメと言われると余計にやりたくなる」生き物です。
カッとなったこと、手を出したことを直接咎めたとしても響きません。
「ダメ」で済んだら苦労はありません。笑
私が敬愛するアドラーさんが提唱する考えに「目的論」というものがあります。
「人間の行動には全て目的がある」という考えです。「怒り」にもそれによって達成したい目的があるから「怒る」のです。
「気に入らないから怒る」「ムカつくから怒る」
大人の子供の怒りに対する解釈なんてその程度ではないでしょうか?
ですが怒りの根底にも子供なりの目的が潜んでいます。
その目的を理解しようとせずに行動ばかりに目を向けても、子供達の心に真に寄り添うことは出来ません。
つまりすぐにカッとなって手を出してしまう子に、いくら「手を出したら危険」とか「怪我をしたらどうする」とか「暴力を振るうな」と声を荒げても仕方のないことだと分かります。
またまたアドラーさんにご登場いただくと、感情を使うのは「①相手をコントロールする」「②自分をコントロールする」という主に2つの目的があります。
①に当てはめて考えてみると正義感の強い子供は「相手をコントロール」したくて
「怒り」の感情を使っているということになります。
「怒り」に対するアプローチばかりしても子供には響きません。
しこりが残る感覚も現場の人には分かるでしょう。「あんだけ言ったのにまたやってる」とずしりと心が重くなって、さらに語気を荒げる悪循環にもなります。
僕のチームの子も練習のたびに喧嘩をしています。
喧嘩をしに来てるのかサッカーをしに来てるのか分からないくらいです。笑
ですがその子には、表面上の理解者が自分しかいません。
決して偉ぶっているわけではなく、本当にそうなのです。
友達も父親も他の保護者も誰も「彼がなぜ怒っているのか」に目を向け、彼を守ろうとはしません。
そうなるとその子はより孤独感を強めてしまい、どんどん自己肯定感が低くなっていきます。
自分の苦手な練習を全力で拒否したり、恥をかきたくないからと休んでしまうこともあります。
そういう子は自分の中のルールがあり、それを他者にも当然のように当てはめようとします。
「みんなこうあるべきだ」という強い固定観念を押し通すために「怒り」を使っています。
なので子供に対するアプローチとしては、行為そのものを良い方向に操作するのではなく、目的を想像して歩み寄る態度を見せることが大切だと思っています。
無理矢理価値観をねじ曲げるのではなく、対話によって目的を探る。
その上で「他人を自分好みに変えることはできない」とやんわり伝えることが大切です。
もちろんその子が変わるかどうかはその子次第です。
かくいう僕もその子を変えることは出来ていないわけですから。
ただ「他人を変える」という心構えではなく「他人を変えるきっかけを与える」くらいの気持ちで良いのかもしれません。
所詮どこまで行っても僕たちは「コーチ」であり、「赤の他人」の域を出ないのですから。
どこかで線引きは必要です。
保護者の教育方針にダメ出しをしても何も生まれません。
話が少々逸れてしまいましたが、喧嘩を決して「悪」と決めつけてはいけません。
「陰口を言い合う関係」「言いたいことを言えない関係」よりもよっぽど健全です。
どうか温かい目で広い心で見守ってあげてください。
そして、いつも喧嘩をしてしまう子にはあなただけでも寄り添ってあげてください。
「大丈夫。僕は君の味方だよ。君が怒る気持ちも分かるよ。だから何も気にせず思い切りやりな」
理解者が一人でもいればその子の心はどれだけ軽くなるか。
繰り返しになりますが「他人を変える」なんて傲慢な考えは捨ててください。
結論として「喧嘩を処理する」なんてコーチの領分ではありません。
喧嘩っ早い子が喧嘩をするのは、もはやルーティーンだと思って諦めてください。笑
決して「もう二度と喧嘩をさせないように」などと考えぬように。
これは自分への戒めでもあります。